Masuk戦いは、三日目に入っていた。
峡谷の地形は、私たちに味方し続けていた。
敵は一度に千程度しか投入できず、そのたびに前衛が押し返す。
押し合いは膠着し、双方に疲労だけが蓄積していった。
けれど、その膠着こそが、こちらの狙いだった。
「敵の消耗が、限界に近づいております」
三日目の朝、ゼルが報告した。
「彼らは補給線が長い。対してこちらは、帝国内から補給を受けられます。この差が、そろそろ効いてまいります」
「あと、どれくらいで」
「今日中には、動きがあるかと」
その予測は、正確だった。
*
昼過ぎ、敵陣に異変が起きた。
隊列の後方が、乱れ始めたのだ。
高台から見ていた私にも、その変化ははっきりと分かった。
整然としていた列が崩れ、兵たちが後ろへ流れていく。
「――退いております」
伝令が、興奮した声で報告した。
「敵勢、全面的に後退。峡
その涙を見た瞬間、バルドウィンが動いた。「――聖女様。お下がりください」彼は、ミナの肩に手を伸ばした。この場から連れ出そうとしているのは明らかだった。その手が触れる寸前で、ミナが後ろへ退いた。「触らないで」その声は、小さかった。けれど、拒絶の意志だけは、はっきりと伝わってきた。バルドウィンの手が宙で止まった。「聖女様」「お願いです。少しだけ」ミナは、俯いたまま言った。「少しだけ、話をさせてください」その懇願に、大聖堂の空気が張り詰めた。バルドウィンは、しばらく彼女を見下ろしていた。その表情から、初めて微笑みが消えていた。何かを計算しているような、冷たい目だった。やがて、彼は一歩下がった。「――どうぞ、お好きに」その許可には、明らかな含みがあった。好きに話せ。どうせ、何も変わらない。そう言っているように聞こえた。*ミナは、ゆっくりと顔を上げた。その目が、まっすぐに私を捉えた。頬にはまだ涙の跡が残っている。けれど、その瞳の奥にあるのは悲しみではなかった。もっと熱く、もっと硬いもの。「――ヴィオレット様」彼女は、私の名を呼んだ。「はい」「わたしが、何を失ったか。ご存じですか」その問いに、私は答えられなかった。知っている。前世で、私は彼女の命を奪った。それは、動かしがたい事実だ。けれど、彼女が問うているのは、それだけではないはずだった。「――お聞かせください」私は、そう答えた。ミナは、深く息を吸った。「仲間が、いました」彼女は、静かに語り始めた。「私を抜いて五人でした。剣士のモーガン。弓術士の
その紙片を私は一晩中握りしめていた。夜が明けても答えは出なかった。行くべきか、行かざるべきか。これが罠である可能性は誰の目にも明らかだった。それでも、あの一行を無視することは私にはできなかった。朝、私は皆を集めた。「――行きます」そう告げると、ゼルが即座に反応した。「罠でございます」「分かっています」「筆跡が本人のものであっても、書かされた可能性がございます」「それも、分かっています」私は、彼をまっすぐに見た。「けれど、もし本物だったら。あの人が本当に、そう書いたのだとしたら」ゼルは、しばらく黙っていた。その小さな身体が、いつもより硬く見えた。彼は、軍師としての判断と、私の意志との間で、必死に折り合いをつけようとしている。「――条件がございます」やがて、彼はそう言った。「聞かせて」「単独では、なりません。殿下と、シェラ殿が同行なさること」「それは」「それと、正面から参ります。使節としてではなく、休戦交渉の使者として」その提案に、アルヴィス様が反応した。「休戦交渉」「はい。敵勢は峡谷で消耗し、南部でも敗退しております。この状況なら、交渉の申し入れは不自然ではございません」「向こうが、応じると思うか」「応じるでしょう」ゼルは断言した。「大司教は、魔王様を大聖堂に招き入れたがっております。前回、そうであったように」その分析に、私は背筋が冷えた。確かに、あの男は前回も「また、お会いしましょう」と言った。それは招待ではなく、予告だったのかもしれない。「では、こちらが罠と知りながら入る、ということですね」「はい。ですが、今回は準備がございます」*三日後、私たちは総本山の門前に立っていた。前回
戦いは、三日目に入っていた。峡谷の地形は、私たちに味方し続けていた。敵は一度に千程度しか投入できず、そのたびに前衛が押し返す。押し合いは膠着し、双方に疲労だけが蓄積していった。けれど、その膠着こそが、こちらの狙いだった。「敵の消耗が、限界に近づいております」三日目の朝、ゼルが報告した。「彼らは補給線が長い。対してこちらは、帝国内から補給を受けられます。この差が、そろそろ効いてまいります」「あと、どれくらいで」「今日中には、動きがあるかと」その予測は、正確だった。*昼過ぎ、敵陣に異変が起きた。隊列の後方が、乱れ始めたのだ。高台から見ていた私にも、その変化ははっきりと分かった。整然としていた列が崩れ、兵たちが後ろへ流れていく。「――退いております」伝令が、興奮した声で報告した。「敵勢、全面的に後退。峡谷から離脱を始めております」その報せに、陣全体から歓声が上がった。三日間、耐え続けた兵たちの声だった。けれど、アルヴィス様は、すぐには表情を緩めなかった。「追撃は」「――なさらぬほうがよろしいかと」ゼルが、即座に答えた。「なぜだ」「峡谷を出れば、地形の利がなくなります。数の差が、そのまま出ましょう」その説明に、アルヴィス様は頷いた。「では、追わない。防衛線を維持しろ」「畏まりました」命令が、次々と下されていく。歓声が収まり、兵たちは持ち場に戻っていった。私は、遠ざかっていく敵の隊列を見つめていた。勝った、という実感はなかった。ただ、押し返しただけだ。相手は消耗しただけで、壊滅したわけではない。そして何より、まだ二つの報せを待っていた。*一つ目は、その日の夕刻に届いた。
――ドルフ視点――峡谷を抜けて南へ走ると、半日で村が見えてきた。小さな村だった。家は二十軒ほど。畑が斜面に沿って段々に広がり、その向こうに低い山が連なっている。煙突からは、まだ煙が上がっていた。誰も、これから来るものを知らないらしい。俺は、村の入り口で足を止めた。息が上がっている。半日走り通しだった。五十の身体には、さすがに堪える。「――誰だ、あんた」畑にいた男が、こちらに気づいて声をかけてきた。鍬を手にしたまま、警戒した目でこちらを見ている。「帝国から来た。半日以内に、兵が来る」俺がそう言うと、男の顔色が変わった。*村人たちが集まってくるまで、そう時間はかからなかった。三十人ほどだろうか。年寄りと女子供が多い。若い男は、数えるほどしかいない。彼らは、俺の話を聞くうちに、次第に青ざめていった。「八百、だと」村長らしい老人が、震える声で繰り返した。「そんな数が、なぜこんな村に」「村を狙ってるわけじゃねえ。通り道なだけだ」俺は、正直に答えた。「だが、通り道にある村がどうなるかは、あんたらも想像がつくだろう」その言葉に、誰も反論しなかった。「逃げろ。山の中へ」俺は、そう告げた。「今すぐだ。荷物は最小限にしろ。半日ある」村人たちが、ざわめき始めた。長年暮らした家を捨てることへの躊躇いが、その顔に浮かんでいる。「――待ってくれ」一人の若い男が、前に出た。「俺たちも、戦う。村を守りたい」その気持ちは、痛いほど分かった。「気持ちはありがてえ。だが、駄目だ」「なぜだ」「あんたらが戦えば、殺し合いになる」*俺は、鉄棒を
西部の峡谷に着いたのは、出陣から二日目の夕刻だった。そこは、思っていたよりもずっと狭い土地だった。両側から迫る岩壁が、空を細長く切り取っている。谷底を通る道は、大軍が横に広がることを許さない。ゼルがここを選んだ理由が、一目で分かった。「――兵を、三段に配置いたします」到着するなり、ゼルが指示を出し始めた。「前衛が崩れても、後ろが支える。峡谷の幅なら、一度に押し寄せられるのは千程度でございます」「向こうは一万二千だ」アルヴィス様が言うと、彼は頷いた。「はい。ですが、その一万二千が、順番に来るしかない地形でございます」*その夜、私たちは谷の奥に陣を張った。篝火が、岩壁を赤く照らしている。兵たちは静かだった。誰もが、明日に何が起きるかを知っている。その静けさが、かえって重かった。「――お嬢様。少しはお休みください」シェラが、毛布を持って来てくれた。「あなたこそ」「わたくしは、慣れておりますので」そう言いながら、彼女の目の下にも、はっきりと隈が浮かんでいた。私は、毛布を受け取った。岩に背を預け、空を見上げる。細長く切り取られた空に、星がいくつも瞬いていた。*明け方、斥候が戻ってきた。「敵勢、峡谷の入り口に到達。展開を始めております」その報告を受けて、陣が一斉に動き始めた。兵たちが所定の位置につき、槍が構えられ、盾が並べられる。金属の擦れる音が、谷全体に響いていた。私は、中央後方の高台に立った。そこからは、峡谷の全体が見渡せた。前衛の隊列、その後ろの第二段、さらに後方の予備兵力。すべてが、ゼルの計画通りに配置されている。「――始まりますね」隣に立つゼルが、静かに言った。「ええ
出陣は、三日後と決まった。その間、宮は昼夜を問わず動き続けた。兵糧の手配、武具の点検、伝令網の整備。ゼルの立てた計画に従って、すべてが淀みなく進んでいく。彼は五歳の身体で、丸二日間、ほとんど眠らずに指示を出し続けた。三日目の夜、私は広間に皆を集めた。窓の外はすでに暗く、卓の上には燭台がいくつも灯されている。その光の中に、シェラ、ゼル、ネフィリス、そしてガイル様の顔があった。「――配置を、最終確認いたします」ゼルが地図を広げた。「本隊は、西部の峡谷に布陣いたします」彼の指が、地図の一点を示した。「殿下が総指揮。ガイル様が右翼、シェラ殿が左翼を担当。魔王様は、中央後方に」「後方、ですか」私が問い返すと、ゼルは頷いた。「はい。魔王様の御力は、切り札でございます。序盤で消耗させるわけには参りません」その判断は、理解できた。けれど、後方で待つというのは、性に合わなかった。「わたくしも、前に出たいのですが」「駄目だ」アルヴィス様が即座に答えた。「あなたが倒れれば、それで終わる。分かっているだろう」その断固とした調子に、私は反論できなかった。「ネフィリスは」私が問うと、彼が一歩前に出た。「あたしは、別行動でございます」「別行動」「はい。戦が始まったら、その混乱に紛れて、総本山へ向かいます」その言葉に、私は息を呑んだ。「一人で、ですか」「隠蔽魔法を使える者は、あたししかおりませんので」彼は、静かに答えた。以前のような独断ではない。これは、正式に承認された作戦だった。*「危険すぎませんか」私が言うと、ゼルが説明を引き取った。「危険でございます。ですが、これ以外に方法がございません」彼は、地図の上の







